ウソ

(2016年8月号コラムより)

最近、政治家でも芸能人でも「ウソ」が多い。「ウソ」にも色々レベルがあり、政治家の誰が見てもわかる明らかな「ウソ」には閉口、怒りすら覚えるが、「ウソ」も方便というたとえもある。テレビドラマにあったのだが、某国での「ウソ」の考え方が興味深い。

某国では、「ウソ」をつくことが悪いこととは教えられていない。某国の徳目の一つに「避諱(ひき)に行きつく」というのがある。これは隠すとか避けるとかいう意味であるが、国家や家族のために不利なことは事実を曲げてでも隠さねばならない、それが正しいという考え方である。身内の対面を汚すことはあってはならない。正直であるということは、この考え方の前では重要でなくなるわけである。国家にとって都合が悪いこと、不名誉なことは一切明らかにしてはならないという「倫理観」である。

こうしてみると最近の企業における「倫理観のぶれ」が散見されるなか、グローバルに考えると千差万別なんだと思い知らされる。

我々は、幼少の頃から「ウソをつくと雷さんにおへそをとられる」や「お天道様はすべてお見通し」など「正直者がバカを見ることはあってはならない」と教えられてきた。名探偵コナンのセリフではないが、「真実はひとつ」であってほしいし、その真実がねじ曲げられたり、隠ぺいされたりするのは心穏やかではない。真実(失敗=経験)を享受して、その反省をもとに次の成長に向かい徳を積むという倫理観を持ち続けたい。性善説はもはや死語なのだろうか。

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言霊(ことだま)

(2019年10月号コラムより)

私は東京に単身赴任ということもあり、比較的自由な時間が持て自分自身への投資に充てることが出来る。そのようなこともあり、すっかり朝の散歩がルーティンワークに入ってしまった。すでに5年は続けているだろうか。6時に起床し、部屋でラジオ体操をした後散歩へ。スタートは近所のお地蔵さんへのお参りから始まり、隅田川沿いをストレッチ含め約30分散歩し、朝の新鮮な空気を満喫した後、稲荷神社への参拝で終わる。お参りをサボると何か悪いことが起こりそうで、気の弱い私は雨の日でも傘をさしてお参りだけは行くようになっている。

その稲荷神社の手水舍(手を清める場所)で毎日、目にするのは「反省~威張る時には神に捨てられ、欲張る時には金に背かれ、妬む時には友を持ち得ず、怒る時には己を失うのだ」という言葉だ。神様の場所にかかれている言葉はどこか厳かで、書物やテレビ、SNSで見るものより重く感じる。

コトバは言霊(ことだま)とも言われ、その使い方ひとつで親友をなくしたり、誤解を招いたりする怖いものでもあるが、反面「ひとつの言葉」で局面が変わったり、救われたりする諸刃の剣のようなものである。政治家や有名人が失敗するのも普段思っていたことがついコトバに出てしまったり…まさに「語るに落ちる」である。

「明元素」「暗病反」言葉というものがあるが、私は出来るだけ「ありがとう、やってみよう、楽しい、うれしい、おもしろい、おいしい、ついてる…」などの「明元素」言葉を使い、自分の持つパワーが減らないようにしている。よく他人に「楽観的」と誤解される事もままあるが、「つたないレベルでも、やれることは、さぼらずにしっかりと準備し、知恵の少なさを補うため衆知を集め、自分で決断して前に進む」あとは、運を天にまかせ、ひたすら神頼みである。だから毎日の散歩が欠かせない。なあ私なりに日々必死で生きている(つもりである)

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永遠に残してほしい言葉

(2018年11月号コラムより)

先月号で広辞苑からはずしてもらいたい2つーのコトバに言及したが、今月号については逆にいつまでも永遠に残してほしいコトバを2つ。

ひとつめは「根性」。昭和生まれの私たちは子供のころから「根性」「根性」で育てられた。テレビでも「巨人の星」や「アタックナンバーワン」などのスポーツ漫画は「根性」一本鎗で、自動的に洗脳されたものだ。それらを今あらためてみるとパワハラ満載であるが、当時はいたって普通であった。100本ノックや1000本ノック、又日常で弱音をはきたくなることなど、すべて「根性」という魔法の言葉で乗り越えた。「根性なし」とは言われたくないために。現在は時代錯誤なのだろうか、耳にすることがほとんどない。

ふたつめは「一生懸命」。広島カープの新井選手の代名詞のようなコトバ。40歳を超えても全力疾走、全力プレーを怠らず(それが時として愛すべき滑稽な場面をしばしばつくる)チーム内でも兄貴のように慕われ、ファンの間では、抜群の人気選手である。実力の不足を一生懸命でおおいつくした名選手だと思うし、イチローや大谷選手にはなれそうもないが、もしかしたら新井選手くらいにはなれるかもと子供たちに思わせる所が嬉しい。この言葉も魔法のことばだと思うが、さらっと出来てしまう君に対して、汗をかきかき、泥だらけになり、それでも出来ない君の方に軍配が上がる時代は過去のものになってしまうのだろうか?

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無くなってほしい言葉

(2018年10月号コラムより)

今年1月に「広辞苑」が10年ぶりの改訂をし、新たに1万語が追加された。時代の変化と共に言葉も変わってくるのであるが、一方では、早く無くなってほしいコトバもある。

ひとつは「ちくる」。言いつける、密告する、他人の悪事を陰で通報する事という意味で、語源は「ちくん」「ちくちく」などの擬態語から生まれた動詞である。最近のテレビの話題はほとんどこの「チクる」からスタートし、民間企業、官庁、政界、スポーツ界、芸能界など話題にことかかない。密告だから言われたほうは否定材料を整えて対抗するので勝負がなかなかつかず、マスコミの格好のネタ(低レベルの)になる。昔なら「文句があるなら本人に面と向かって言え!」である。インドネシアでのバスケット日本代表選手の件も、発見した人には「チクる」のではなく、その場で注意して止めてほしかった。

もうひとつは「へりくつ」。屁理屈とは議論を免れた、的を外した論理で、語源は「屁のようにたよりない理屈」である。皆様ご存じの「朝ごはん論法」のように「朝ごはん食べたか?」「ご飯は食べてません(パンは食べたけど)」が代表作である。昔なら「聞かれたことにキチンと答えろ!」で一蹴された。

いずれも未来ある子供たちの前で、大の大人がまじめにこれらを使用しているのは、滑稽でもあるが、大変不愉快である。

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男と女の脳科学

(2015年7月号コラムより)

今年度の当組合総会記念行事は、感性アナリスト黒川伊保子氏の「男と女の脳科学」講演であった。講演テーマの内容および黒川氏の絶妙なお話が好評で、総会終了後も数社からお問い合わせをいただいた。

黒川氏の話によると、男女の脳は生態的な理由で回路構成と信号特性が元々大きく異なるため「なぜ男性は…?」「なぜ女性は…?」ということを考えること自体が無謀であるということが科学的に証明されている。そして全く異なる脳を持った両者であるがゆえ、女性脳の持つ「察する力と臨機応変力」と男性脳の持つ「俯瞰力」が一緒になり補完しあうことで、気づきや発想の種類が増え、相乗効果を生むのだという。つまり男女は違いを認め合うことが出来れば、最強の組み合わせだということである。

然しながら現実はなかなか思うようにいかないから人生は滑稽であるし、ドラマを生む。ちなみに 夫の暴言ベスト4は…

  1. 誰のおかげで食ってんだ
  2. 言ってくれれば やったのに
  3. 何を怒っているの?
  4. おかず これだけ? の順だそうである。 くれぐれもお気をつけいただきたい。

また、男性脳は1日1000語発声すれば満足であるが、女性脳のそれは男性脳の6倍、なんと6000語発声が必要だとか、この違いの認識も必要だ

13+

顔のお話

(2015年2月号より)

今月号は顔のお話を。JRや地下鉄の車内で人々の顔、表情を見ていると誠に興味深い。眉間にシワを寄せ怒っているような顔、思い悩んで途方に暮れているような顔、何かいいことでもあったのか笑いがこぼれ落ちそうな素敵な顔、無表情の中にも色々なタイプがあり千差万別である。

先日実家に帰ったとき、隣家の大学生の娘さんが就職活動用の写真を撮ってきた話しになった。近くのカメラ屋さんかと思ったらそれが大違い。わざわざ大阪まで行き、金額もなんと1万円。リラックスして自分らしさを最大限に発揮する顔、表情で自分の思いや気持ちを伝え、さらに見た人がもう一度会いたくなるような顔の写真を撮ってくれるという。実際出来上がりを見せてもらうと、なるほど普段よりイキイキと輝くお嬢さんに変身している。

顔は人生の縮図であるといわれる。私も実際今まで生きてきて「こんな顔になりたい」と思った方には数人お目にかかった。年配の方でニコニコされ顔を拝見するだけで癒され、なんとなくこちらも幸せになるような顔をしている人がいる。人生の辛苦を乗り越え最終的にたどり着いた顔が、見る人の心を解きほぐすような翁のような顔であれば人生に悔いはない。

自分の顔を鏡でシゲシゲと見てみた。その中の顔はまだまだである。修行が足りないとみえる。その翁のような顔が私の最終目標か。

16+

「両方」という選択肢

(2016年12月号コラムより)

先日あった同窓会の出来事である。50台後半にもなると話題の定番はゴルフか健康に決まっているが、もうひとつ必ず出るのが退職後の身の振り方である。こればかりは家庭の事情、経済事情、個人の希望と現実などで悩む人も多く、ご多分にもれず臨席のA君も2つの道のどちらにしようかモンモンと悩んでいるとの話であった。

その時である。めのまえにいた元生徒副会長のB子がバッサリと「どっちもやればいいじゃん」と発言。隣で聞いていた私もハッとした。何故なら私の頭にも二者択一、三者択一しかなかったからである。長年の仕事で二者択一を選択し続けてきた弊害か、そういえば「どちらか」を30年あまり選択し続けてきたのかもしれない。そしてあらためて女性の男性にはない頭の柔軟さに敬意を持った場面でもあった。

そういえば子供の頃に聞いた「文武両道」もしかり。大谷選手の「二刀流」もそうだ。ケーキと饅頭の取り合いをするより、それぞれ半分にして両方分け合えばケンカもおきない。ビジネスや人生で「どっちも」という選択肢も一考すれば、選択の幅や可能性が広がり、別の違った答えが出るのかもしれない。

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文豪への道

私は現在、勤務先の機関誌のコラムを毎月書いている。7年前始めた時は、物書きは未知の世界。しかし私の元来持つ「いい加減さ」アバウトな性格に助けられ何とか続けてきた。

ここまで来ると 将来 書籍のひとつでも出版してみるか、絵本でもつくるかと考えて夢見てしまうのが…私の悪癖である

次号より そのコラムの一部を投稿してみる。ご笑納ください(笑)

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